くくり罠猟を通して感じること。

罠猟のワイヤー

くくり罠猟を通して感じること。


イノシシやシカを「くくり罠猟」で捕獲する際に使うワイヤー。これで約200頭の捕獲分。右側が、新品を買った状態のもの。左側が、約半日のあいだ木の皮を入れた水で煮込み金属光沢と鉄のニオイを落としたもの。これに関しては、やっても無駄という猟師も多い。だが、野性の猪や鹿といった野性動物からしたらどうだろう。自分たちの通り道にワイヤーが置かれ、ピカピカ光ったり、明らかに工業油のニオイを発していたらどうだろう。私のような警戒心の強く臆病な個体は、本能的に違和感が生じて避けるだろう。結果を出すには、根拠が必要だ。

 

職業猟師として生業をつくるには、いかに相手の気持ちを汲むことができるかが大切だと思っている。どこまで洞察力を高められるか。「何を、どうしたら、こうだから、こうなる。」と言い切れるほどに単純化された、型を持たなければならない。そこまで辿りつけなければ狙って成果は出し続けられないし、猟という営みのあまりの難しさと過酷さに続けられなくなるかもしれない。私は知っている、誰もがここまで情熱を注げないことを。凄まじいほどの情熱と、狂おしいほどの探究心、さらにはそれをやり続けるだけの根性が要るからだ。

 

なにかを覚えるときに、中途半端な人間に習うことほど危うくもったいないことはない。分かったような気になった人に習うと、心底「わかっている」人と違い、真実とことなることを良かれと思って教えてくれるからだ。だから本質やほんものを見抜く人間力が要るし、人を見る目を磨かなければいけない。その能力は結果として、自分の生き方を助けてくれるから、人生には勉強が必要だと思っている。
この人だ、と思う人を見つけたら、教わることの意味と重みを理解し、覚悟を持って会いにいくのも良いと思う。相手が生きてきたなかで培ってきた技術の重み、それは生き様でもある。だから、その人の生き様を尊重したうえで、なにがなんでも受け継ぎたいんだという確かな意思を持っていけば、無下には断れないだろう。ただし、教えたり育てたりする側には、自分のもとへ来る相手を選ぶ権利がある。つまり、世話になる側がどうしたら自分が選んでもらえるかをよく考えて動かなければならないのだ。

 

いまは本気で稼ぐ気でいる。それは妻と子を守るためだ。ただし私は、稼げれば良いとは全く思っていない。自分が本領を発揮できる世界で、いい仕事をしてまっとうに稼ぎたいのだ。だからこんな生業をつくり始めてきた。おそらく、本気になった私は家族を養う分のお金は稼ぐだろう。そして近い将来、次世代を育てる立ち場にいかなければならないと思っている。そのためには、生活の基盤をできる限り早く作らなければならないのだ。

 

ある人が私のことを、ヤジンと呼ぶ。野人、だそうだ。私は野山がすきで、すきなことを真剣にしてきただけだ。そんな私に、彼はいう。野人を増やしたい、と。それは、自らの意思でたくましく地域に根付いて生きる人を増やしたい、ということだと感じている。そんな人を育てるためなら、私にできることもありそうだ。人に心から必要とされたり、自分の存在価値を感じられることがあれば、人間は力を発揮できるし、より人にやさしくできるのかもしれない。